表現について
今回は表現。主に演技について話します。
人物紹介
— 踊る社長 【岡脇柚太加】バレエ公演 メサイア (@yuppiiteru) 2018年10月23日
イスカリオテのユダ
イエスを裏切った人。生まれて来んかった方がマシとまで言われる
最後の晩餐中に裏切りがバレて冷や汗が止まらない。
「イエスを裏切ったユダが答えて言った、「先生、まさか、わたしではないでしょう」。イエスは言われた、「いや、あなただ」
マタイによる福音書 26:25 pic.twitter.com/oFffWvsN2C
↑これワタクシです
演技にはいくつか種類があります。
喜び。怒り。悲しみ。楽しい。
そう、喜怒哀楽です。
そして、人には得意分野があります。
私の場合は怒りと悲しみです。
例えば、ユダ役を演じる時
イエスに対する歪んだ愛を思います。この人は自分のことだけを愛してくれている。
この人からの愛を独占したい。という想いですね。完全にメンヘラです。
演者としてメンヘラになりきるわけです。
そしてその中で自分の思い通りにいかないイエスに対しての懐疑心を掘り起こします。
演技の作業の話ですよ。聖書にはなぜユダが裏切ったかは書いてません。
その中でどんどんドツボにはまっていく自身、思考が歪み、こんなに自分はイエスを愛しているのにイエスは自分のだけをみてくれない。ナラドの香油をブチまけた女のことだって擁護した、、
とリアルに想像するわけです。自分自身の心をその世界に入れていくわけです。
人間してもらったことより、やってあげたと思っていることのほうが記憶に残るものです。傲慢な生き物なんです。
そしてついに裏切りに至るわけです。十字架のシーンでユダはイエスに口付けをしますがその時の心理状況はかなり複雑で、演者としてはイエスと過ごしたであろう楽しい思い出や、一方的に傷ついたことやいろんなことを走馬灯のように想像してます。
先生!大好きだけど、大嫌い!いっそ自分のものにならないなら殺してしまおう。
そのような気持ちで口つけをしてます。
これはユダがそうであったという話ではなくて演者とし私の場合そのように感情を持って行っているというお話です。
やはり、ダンサー、表現者は結構大変なんです、中にはその自分の作り出した世界から抜けられず自殺しちゃう人もいます。
でも、お客さんに感動してもらう為に我々はこういったことを続けるわけなんですね。
そんな戦いの中でダンサー達は踊ってます。
チケット買ってくだい(切実)